貪欲(どんよく)でずるがしこい商売のことを、阿漕(あこぎ)な商売、と言いますね。
阿漕とは、このようにあくどい商売のことを指す言葉です。
悪徳商売の代名詞のようになっている「阿漕」ということばですが、語源をたどれば少しニュアンスの違う物語が元になっています。
そこには親思い息子の物語がかくされていました。
この記事では、阿漕の語源と能の演目にもなっている阿漕のストーリーについてお伝えします。
阿漕な商売、語源は?
阿漕といえば、あくどい商売として広く認識されていることばです。
阿漕の語源となった物語をご紹介します。
三重県の阿漕ヶ浦に住む漁師の平治は、病気の母親に栄養のつくものを食べさせたいと、禁漁区の阿漕ヶ浦(あこぎがうら)に夜な夜な出かけては魚をとっていました。
阿漕ヶ浦は、伊勢神宮に納めるための漁場で、一般に人は魚をとってはいけない決まりがありました。
しかし、阿漕平治は、母親が病気で痩せていくのを見て、栄養をつけさせてあげたいと禁漁区に入って漁をしていたのでした。
ヤガラという細長い魚がこのあたりでよく獲れたそうで、平治は禁猟区と知りながらヤガラをとっては母親に食べさせていました。
ところが、何度も浜へ通ううち、誰かが禁猟区で魚をとっているといううわさがお役人の耳に入ります。
お役人は、浜に置き忘れた平治の菅笠(すげがさ:すげで編んだ頭にかぶる笠)で平治を特定し、平治はとらえられ海に沈められました。
阿漕の物語から、「繰り返す」「度重なる悪事」「あくどい」といった部分が強調されて、あくどい商売の代名詞として用いられるようになりました。
しかし、物事の見方はひとつだけだけではありません。
阿漕の物語は、阿漕平治の親孝行と、悪事を繰り返すことの2つの見方があります。
阿漕な商売とは、悪事を繰り返すことからきたことばですが、その奥には阿漕平治の親思いの心があったのだと知っていただければ平治も浮かばれるでしょう。
阿漕平治は地元、三重では親思いのやさしい人として知られる
そんな密漁を犯した阿漕平治(あこぎへいじ)ですが、地元の三重県では親孝行の息子としてたたえられています。
地元・三重では阿漕平治は親思いのやさしい人として知られています。
笠をかたどった銘菓「平治せんべい」もあります。
能の演目「阿漕」のあらすじ
まず、能の阿漕(あこぎ)のストーリーを紹介しましょう。
とある僧が、日向(ひゅうが)の国(今の宮崎県)から伊勢神宮に参詣するために、伊勢の阿漕ヶ浦(今の三重県津市にある阿漕ヶ浦)に着きました。
そこで、一人の漁師と出会います。
漁師は平安時代の歌人・西行(さいぎょう)の和歌を引き合いに出します。
伊勢の海阿漕が浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ
意味:ここは禁漁区の阿漕ヶ浦、誰にも知られないようにこっそり魚をとったとしても、何回も繰り返すとやがて人に見つかってしまうだろう。
このあたりの海は、伊勢神宮に捧げる魚をとる海であり、一般の人が魚をとってはいけない決まりがありました。
しかし、阿漕平治という漁師は、そのおきてを破り、夜な夜な魚をとっていたのです。
あるとき、漁師はかぶっていた笠(かさ)を浜辺に落としたため、身元がばれてしまいます。
漁師は役人に捕らえられ、海の底に沈められてしまったのです。
漁師は、自分がその阿漕であると明かし、僧に成仏させてほしいと頼むのでした。
ここで突然風が吹き、急に海が荒れ出します。
亡霊の姿となった阿漕が再び現れ、漁の快楽が忘れられずに竿(さお)を振ります。
漁師は魚をとるのが仕事、だから魚をとる喜びを忘れることができなかったのです。
阿漕は地獄に落ちてまでも収獲の悦びが忘れられず、魚をとることへの執着から離れることができません。
悪事を繰り返す罪深さは、救われることがありません。
阿漕は今、地獄で氷の責め苦(せめく)にあっています。
救われることなく続く、永遠の地獄での苦しみ。
地獄の責苦(せめく)にさいなまれながら、波間に消えてゆきます。
能 阿漕の見どころと感想
阿漕は、全体を通して暗い演目ですが、人間の業(ごう)の深さをまざまざと考えさせられます。
生きていくためには、魚も食べなくてはなりません。
動物の命をいただいて、人間は生きています。
しかし、命をあやめる者は地獄に落ちるという、因果応酬の仏教感が根底に流れています。
生きるため、(仏教の教えではしてはいけないと言われている)殺生をしなければならない。
世間の目と自分の職業観との落差。
生きることの罪深さ。
人間、きれいごとだけでは生きていけません。
殺生をしてはいけないという倫理観と漁師の生業(なりわい)は、相反するものです。
自分の職業は、魚をとる漁師だ、生きるためにやっている。
それはしかたのないことです。
前半、漁師として出てくる阿漕はおじいさんの能面をかけています。
鼻の下にひげをはやした、下品なおじいさんの様相です。
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能面は、痩せ男(やせおとこ)の頬がこけ目が落ちくぼんだ顔立ち。
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人間はあの世へ行っても快楽を手放すことはできないものなのでしょうか。
あの世で漁をするときに、シテ(阿漕)が使う「しであみ」というカゴのようなものをえいっと後ろに振りかざすところが見ものです。
うまく着地するか、能や舞台劇は、一回一回が真剣勝負。
ナマモノ、水ものなので、ここも見ものです、と能楽師の先生がおっしゃっていました。
このときは、うまく着地しました。
人間とは、なんと罪深いのでしょう。
それを自覚して生きることが、せめてもの救いの道なのでしょうか。
悲しいけれど、深く考えさせられる物語です。
阿漕のテーマと西行の不倫の和歌
能の阿漕は、和歌からテーマを引いています。
全体に流れるテーマは、「度重なる、繰り返す」
元となった和歌のひとつが、平安時代の僧であり歌人の西行の和歌です。
伊勢の海阿漕が浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ 意味:ここは禁漁区の阿漕ヶ浦、誰にも知られないようにこっそり魚をとったとしても、何回も繰り返すとやがて人に見つかってしまうだろう。
裏の意味として、西行はとある高貴な人妻に恋をしていました。
たびたびこの場所で逢瀬(おうせ)を重ねていたといわれています。
人目を忍んで、こっそりと会っていました。
いわゆる不倫です。
しかし、それも度重なれば、人に知られてしまうことになる。
気をつけなければならないというような意味です。
阿漕では、生きている間に何度も繰り返し密漁をする。
死んで地獄に落ちてまでも、密漁をやめることができない。
繰り返してしまう罪が、阿漕に流れるテーマとなっています。
このように能では素材からテーマを引いて、ストーリーに含みを持たせることがあります。
阿漕の語源は地名から!三重県津市の阿漕ヶ浦
阿漕ヶ浦は三重県津市にあります。
親孝行息子の悲しい物語の舞台、阿漕ヶ浦に行ってきました。
ちなみに阿漕ヶ浦の海岸は、映画『浅田家』のロケ地にもなりました。
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阿漕ヶ浦は三重県津市にあります。
伊勢神宮に近く、神話や和歌の題材になった地です。
JR東海の阿漕駅にも名を残します。
阿漕な商売はあきまへん!
以上阿漕についてみてきましたが、
阿漕とは、「繰り返す」「度重なる悪事」「あくどい」といった部分が誇張されて、悪徳商売の代名詞として使われるようになりました。
商売してはる人は、ぜひこの阿漕の語源を知っていただきたいですね
阿漕な商売はあきまへん。
欲が深すぎると、地獄に落ちても苦しむことになりまっせ!
しかし、物語の奥に、阿漕平治の親孝行の物語があったことを知っていただけると、平治もうかばれることと思います。
能には悲しみを題材にしたものがたりが多くありますが、鉄輪も悲しみの中に女の執念を描いたものがたりです。
機会があればぜひ一度ごらんいただきたい演目です。
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最後まで読んでくれはって、ほんまにおおきに〜〜ありがとうございます!