貪欲(どんよく)でずるがしこい商売のことを、阿漕(あこぎ)な商売、と言いますね。
阿漕とは、このようにあくどい商売のことを指す言葉ですが、能にも阿漕を題材にした演目があります。
能の阿漕は悪どい商売とは少し意味合いが異なっていて、人間の業(ごう)の深さを描いた悲しい物語です。
この記事では、能の阿漕の演目と、阿漕の語源についてお伝えします。
能の演目「阿漕」のあらすじ

まず、能の阿漕(あこぎ)のストーリーを紹介しましょう。
とある僧が、日向(ひゅうが)の国(今の宮崎県)から伊勢神宮に参詣するために、伊勢の阿漕ヶ浦(今の三重県津市にある阿漕ヶ浦)に着きました。
そこで、一人の漁師と出会います。
漁師は平安時代の歌人・西行(さいぎょう)の和歌を引き合いに出します。
伊勢の海阿漕が浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ
意味:ここは禁漁区の阿漕ヶ浦、誰にも知られないようにこっそり魚をとったとしても、何回も繰り返すとやがて人に見つかってしまうだろう。
このあたりの海は、伊勢神宮に捧げる魚をとる海であり、一般の人が魚をとってはいけない決まりがありました。
しかし、阿漕という漁師は、そのおきてを破り、夜な夜な魚をとっていたのです。
あるとき、漁師はかぶっていた笠(かさ)を浜辺に落としたため、身元がばれてしまいます。
漁師は役人に捕らえられ、海の底に沈められてしまったのです。
漁師は、自分がその阿漕であると明かし、僧に成仏させてほしいと頼むのでした。
ここで突然風が吹き、急に海が荒れ出します。
亡霊の姿となった阿漕が再び現れ、漁の快楽が忘れられずに竿(さお)を振ります。
漁師は魚をとるのが仕事、だから魚をとる喜びを忘れることができなかったのです。
阿漕は地獄に落ちてまでも収獲の悦びが忘れられず、魚をとることへの執着から離れることができません。
悪事を繰り返す罪深さは、救われることがありません。
阿漕は今、地獄で氷の責め苦(せめく)にあっています。
救われることなく続く、永遠の地獄での苦しみ。
地獄の責苦(せめく)にさいなまれながら、波間に消えてゆきます。
阿漕平治は地元、三重では親思いのやさしい人として知られる
そんな密漁を犯した阿漕平治(あこぎへいじ)ですが、それにはわけがあったのです。
阿漕平治は、母親が病気で痩せていくのを見て、栄養をつけさせてあげたいと禁漁区に入って漁をしていたのでした。
ヤガラという細長い魚がこのあたりでよく獲れたそうで、ヤガラをとっては母親に食べさせていました。
地元・三重では阿漕平治は親思いのやさしい人として知られています。
笠をかたどった平治煎餅なる銘菓もあります。
明日のおやつ
三重県津市
平治煎餅本店さんお菓子
平治煎餅珈琲
「和菓子とコーヒー」津市にある阿漕浦
考子(親孝行)な平治の物語があるのです。
悲しくてとっても愛情深いお話。
和菓子にはそんな物語があるから楽しくて大好き#和菓子とコーヒー #SaveTheWagashi #onlineteatime pic.twitter.com/xipHpPq2bJ— 福島ゆみこ (@nuko_an) April 26, 2020
阿漕の見どころと感想
阿漕は、全体を通して暗い演目ですが、人間の業(ごう)の深さをまざまざと考えさせられます。
生きていくためには、魚も食べなくてはなりません。
動物の命をいただいて、人間は生きています。
しかし、命をあやめる者は地獄に落ちるという、因果応酬の仏教感が根底に流れています。
生きるため、(仏教の教えではしてはいけないと言われている)殺生をしなければならない。
世間の目と自分の職業観との落差。
生きることの罪深さ。
人間、きれいごとだけでは生きていけません。
殺生をしてはいけないという倫理観と漁師の生業(なりわい)は、相反するものです。
自分の職業は、魚をとる漁師だ、生きるためにやっている。
それはしかたのないことです。
前半、漁師として出てくる阿漕はおじいさんの能面をかけています。
鼻の下にひげをはやした、下品なおじいさんの様相です。
後半は亡霊となった阿漕が登場します。
能面は、痩せ男(やせおとこ)の頬がこけ目が落ちくぼんだ顔立ち。
人間はあの世へ行っても快楽を手放すことはできないものなのでしょうか。
あの世で漁をするときに、シテ(阿漕)が使う「しであみ」というカゴのようなものをえいっと後ろに振りかざすところが見ものです。
うまく着地するか、能や舞台劇は、一回一回が真剣勝負。
ナマモノ、水ものなので、ここも見ものです、と能楽師の先生がおっしゃっていました。
このときは、うまく着地しました。
人間とは、なんと罪深いのでしょう。
それを自覚して生きることが、せめてもの救いの道なのでしょうか。
悲しいけれど、深く考えさせられる物語です。
阿漕のテーマと西行の和歌
能の阿漕は、和歌からテーマを引いています。
全体に流れるテーマは、「度重なる、繰り返す」
元となった和歌のひとつが、平安時代の僧であり歌人の西行の和歌です。
伊勢の海阿漕が浦に引く網も度重なれば人もこそ知れ 意味:ここは禁漁区の阿漕ヶ浦、誰にも知られないようにこっそり魚をとったとしても、何回も繰り返すとやがて人に見つかってしまうだろう。
裏の意味として、西行はとある高貴な人妻に恋をしていました。
たびたびこの場所で逢瀬(おうせ)を重ねていたといわれています。
人目を忍んで、こっそりと会っていました。
いわゆる不倫です。
しかし、それも度重なれば、人に知られてしまうことになる。
気をつけなければならないというような意味です。
阿漕では、生きている間に何度も繰り返し密漁をする。
死んで地獄に落ちてまでも、密漁をやめることができない。
繰り返してしまう罪が、阿漕に流れるテーマとなっています。
このように能では素材からテーマを引いて、ストーリーに含みを持たせることがあります。
阿漕の語源は三重県津市の阿漕ヶ浦

阿漕ヶ浦は三重県津市にあります。
伊勢神宮に近く、神話や和歌の題材になった地です。
JR東海の阿漕駅にも名を残します。
阿漕な商売、語源は?
阿漕といえば、阿漕な商売というくらい、ひとつの言葉として認識されていますね。
阿漕の物語から、「繰り返す」「度重なる悪事」「あくどい」といった部分が強調されて、あくどい商売の代名詞として用いられるようになりました。
商売してはる人は、ぜひこの阿漕の語源を知っていただきたいですね

阿漕な商売はあきまへん。
欲が深すぎると、地獄に落ちても苦しむことになりまっせ!
しかし、物事の見方はひとつだけだけではありません。
阿漕の物語も、阿漕平治の親孝行と、悪事を繰り返すことの2つの見方があります。
阿漕な商売とは、悪事を繰り返すことからきたことばですが、その奥には阿漕平治の親思いの心があったのだと知っていただければ平治も浮かばれるでしょう。
最後まで読んでくれはって、ほんまにおおきに〜〜ありがとうございます!