陰陽師(おんみょうじ)といえば野村萬斎(のむらまんさい)さん主演の映画でいちやく有名になりました。
映画では式神(しきがみ)をあやつる霊能者のような人物としてえがかれていました。
陰陽師(おんみょうじ)は平安時代、霊能者ではなく学問をおさめた公務員として朝廷(ちょうてい)に仕えていました。
この記事では、陰陽師の仕事についてお伝えします。
陰陽師とは現代でいえば?
まず結論から言います。
陰陽師とは現代でいえば、科学者であり占い師です。
そう思いますよね!
ところが、科学も医療も発展していなかった平安時代。
疫病が流行したり、大きな地震や台風に見舞われたりと、現代ともそんなに変わらない自然災害が発生していました。
そんな時代に、科学や医療という概念(がいねん)はまだありませんでした。
そんな時代に、
安倍晴明は天文学を学び、中国から入ってきた密教の思想に、陰陽(いんよう)の思想をミックスさせて独自に編み出した陰陽道(おんみょうどう)の思想を完成させます。
天文学の知識で気象を予報し、天変地異や疫病から世の中を守り、占い師の念力で祈りました。
なので、安倍晴明の仕事を現代に当てはめると、科学者であり占い師です。
まだ科学が未発達の時代に、国家公務員として使命感に燃えて自分の仕事を成し遂げました。
陰陽師・安倍晴明の生い立ちや経歴は?
謎に包まれた生い立ち
平安時代に活躍した安倍晴明(あべのせいめい)は、今の大阪市阿倍野区に生まれました。
母は信太(しのだ)の狐だという説や霊力を持った巫女(みこ)だったという説など諸説ありますが、生い立ちはベールに包まれていてます。
国家公務員として勤務
安倍晴明は役所に勤務する国家公務員でした。
陰陽寮(おんみょうりょう)という現代でいえば、国会議員の議員宿舎のような官舎があり、そこで暮らしていました。
陰陽師の仕事は、疫病の流行や社会の混乱が大きくなった平安時代、天文学や陰陽道の学問の力で社会を平和にする政治の手助けをすることでした。
陰陽師の仕事は、天文学や陰陽道の知識を生かして世の中を平和を守ることだったのです。
霊力があったのかは不明ですが、現代から比べるとずっと情報量の少なかった平安時代、
流行り病や天変地異などを予測して、被害をおさえ、人々の暮らしを守る使命を持っていました。
この時代、国家を守るのが仏教ならば、庶民の悩みに応えたり、相談できるのが陰陽師でした。
政治の決断は占いで決めた時代
今では考えられないことですが昔は、政治の重大な決断は占いで決められていました。
占いの根拠となるのは、太陽や星の動き、月の満ち欠け、季節の移ろい、など自然科学の思想です。
科学が発展した現代においても、気象の予報や感染症の予測は完全・完璧ではありません。
まして、現代よりもはるかに情報量の少ない中から予測することは、学問を修めた上で、センスやカンのようなものも要求されたのではないかと考えます。
陰陽道とは?わかりやすく解説 結界や鬼門についても!
陰陽道とは
陰陽思想
中国から伝来した学問で、万物を陰と陽に分ける考え方。
陰と陽は一対で、太陽と月、男と女、水と火など相反する性質を持ったものが一対となって世の中の現象を成すという考えです。
五行思想
「気」を 火、水、木、金、土 の5つに区分して5つの気の働きで万物が生まれるという考えです。
密教や宗教の影響
陰陽思想と五行思想に、日本独自の密教の考え(草木やあらゆるものに命が宿り輪廻転生を繰り返すという教え)を融合させた日本独自の思想が出来上がりました。
鬼門とは
古来から鬼が入ってくるという方角のことで、今でも家を新築するときなど鬼門には玄関を作らないなど気にする人も多いです。
家の中心からみて北東の方角のことです。
鬼門・裏鬼門の方角 対策と考え方については、こちらに詳しくまとめています↓
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結界とは
聖と俗とを分ける線引きのことです。
夫婦岩や神社の木などに縄に白い紙がかかっているのを見たことはありませんか。
囲われているのは聖なる場所という意味であり、立ち入ったり触れてはいけませんという意味です。
白い紙は紙垂(しで)といいます。
晴明神社の五行絵馬は、願いごとを書いて神社に納めてきてもよいのですが、悪い「気」を家に入れないよう玄関にかけておく使い方もありです。
五芒星のパワーで一種の結界を張るようなイメージですね。
陰陽師の仕事は?占いや祈祷のほかに暦の作成や天文、人生相談も!
陰陽師の仕事は、暦の作成や時間管理など、現代に置き換えれば秘書のような仕事内容もしていました。
暦の作成
平安時代、今のような毎月のカレンダーはありません。
星の動きから割り出して一年の暦(こよみ)、今でいうカレンダーを作成します。
吉日や凶の日を占いで確かめ、行事の日程なども決めていました。
今でも年末になると書店などで暦が販売されているのを目にすることもあると思います。
暦は、安心して日々をおくるためのみちしるべとなっていました。
晴明神社では毎年10月ごろ、次の年の暦が販売されます。
時間の管理
今のように時計がない時代は、水時計で時間を測っていました。
パソコンも電卓もない時代のこと、アナログな手法でしか時間も日数も測れませんでした。
天文学の研究
現代であれば天気図を読んだり、気象を予想する気象予報士の業務。
月の満ち欠け、季節によって位置を変える星座、太陽の高度などを組み合わせて、気象を予報したりします。
晴明神社には、月と太陽のモチーフも立っていますよ。
占い・人生相談
風水や陰陽道を組み合わせて、世相や相談者の悩みを占っていました。
今でも晴明神社では神職が占い(人生相談)をしています。
陰陽師の映画で野村萬斎が演じた安倍晴明はフィクションだった?
映画では式神を操ったり、空想が現実になったりなど霊力が誇張して描かれていますが、実際のところはどうだったのでしょうか。
50歳を越え経験値も積み、努力も重ね、人間としても円熟期に差し掛かり、力はつけてきていたと思います。
占いや霊能の力も、経験によって鍛えられていたでしょう。
安倍晴明は、超越した霊能者であり、科学者でした。
でも、映画のような一大スベクタルを繰り広げて悪霊と派手に闘うシーンは、イメージでしょう。
演出やフィクションの手法を用いて見せたのが、映画『陰陽師』だとわたしは思います。
現在のような安倍晴明像は、死後、のちの人が作り上げた誇張表現も少なからず混じっていそうです。
実力もあり、カリスマ性があったことは確かでしょう。
だから神にまでなった安倍晴明。
安倍晴明という人物はすごい、神だったのではと、子孫が家を守るためのアピールもあったのではないでしょうか。
大器晩成型の人物だった安倍晴明、陰陽道は晴明のオリジナル思想!
安倍晴明は、大器晩成型の人でした。
実際、陰陽師として第一線で活躍できるようになったのは50歳を過ぎてからだといわれています。
50代後半になってから占いの本『占事略決(せんじりゃくけつ)』を出版しました。
ようやく世間に陰陽師としての活躍が認められるようになり、遅咲きの自己アピールでした。
昔の50代といえば、もういつ死んでもおかしくない時代
50代で花咲いた陰には、野心と努力がありました。
中国から入ってきた密教に天文学や陰陽の思想をミックスさせて完成させた「陰陽道」は、安倍晴明さんのオリジナル思想です。
安倍晴明は一説によると、密教にライバル心を抱いていて、どこにもないオリジナルの陰陽道を編み出したともいわれています。
80代で世を去るまでに、庶民の悩みに応えたり陰陽道の普及に励んだといわれています。
安倍晴明の子孫は土御門家(つちみかどけ)と姓を変えて、今も続いています。
陰陽師の安倍晴明をまつる晴明神社
京都にある晴明神社は、平安時代安倍晴明の住居だった跡地に建てられました。
ピンと張り詰めた空気が他の神社とは一味違います。
学問と霊力とを用いて、世の中の平和に貢献した安倍晴明の生きざまが一種独特な空気を作り出しているように思えます。
まとめ:陰陽師とは
陰陽師とは、何者だったのでしょうか?
まとめると、以下のようになります。
安倍晴明は、科学者であり占い師、霊能者でもありました。
世の中に魑魅魍魎(ちみもうりょう)が渦巻いていた時代、学問で、天候を予報し、人々の暮らしを守り、鍛えた霊能力で疫病を退散させるよう尽くしたのです。
つまり、陰陽師の仕事は、世の平安を守ることだったのです。
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最後まで読んでくれはって、ほんまにおおきに〜〜ありがとうございます!